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和服を着慣れて(着こなして)こその「粋」

「着こなし」と同じで、和服、特に着物を着ていると言われる「粋(いき)ですね」というテンプレコピペのような褒め言葉があるが、「粋」とは、和服を着慣れた(着こなした)状態になってはじめて挑戦する権利が発生するもの。逆にいえば、着慣れていないのに粋を考えても無駄で、なにかを身につけたら「粋」になるわけでもない。

RPGで言えば、レベルを上げないとラスボスが倒せないのと一緒。「〜のたね」や一撃必殺のアイテムもないし、「あぶないみずぎ」を着ればどうにかなるわけでもないのだ。

というわけで、他所様はどうだか知らないが、私なりの「粋」を解説しておこう。

「粋」で大切なのは「自然体」

まずは「着こなし」と同じく辞書で調べてみた。「気性、態度、身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられること」だそうだ。「心意気」という言葉があるように、もとは「意気」から転じた言葉のようで、さっぱりした、すっきりした、といったニュアンスだろう。

ポイントは「自然な色気」という部分で、どんなにあか抜けた恰好をしていても、そこに自然ではない作為的な色気があるとダメ、ということだ。あと「色気」といっても、「男の色気」と書くとなんとなくビミョーなので、自分のカラー、雰囲気、オリジナリティー、と解釈すればいいだろう。

自然=着こなしていること

では、自然な色気を出すにはどうすればいいかというと、まずは和服を着ていること自体が自然に見える必要がある。それはすなわち和服を着こなしている、着慣れていることであり、それを「修業」したからこそ、次のステップである「粋」に進めるのだ。

それを学校に置き換えたのが上の図。着こなし(中学校の授業)を修業していない状態では、「粋」(高校の授業)を考えても意味がない、というわけ。「3×5はいくら?」と聞かれて「3を5回足せばいいんだから、3+3+……15です!」ではなく、すぐさま「15です!」と答えられるぐらいでないと、方程式を解くのはちょっとしんどいだろ?

だから、「粋」の中に「着こなし」は含まれるというか、着こなしているのが前提条件となる。よく聞く「粋に着こなして」という言葉は、「頭痛が痛い」と同じようなもの(解説)なのだ。

色気=自分の個性

上の図で中学校と高校を例に出したが、高校ぐらいからある程度専門分野の学習内容が出てくるはずで、その先の大学に進学すればなおさら専門分野だらけだ。それと同じで、和服をだんだん着こなせるようになってくると、こういった着方をしたい、こんな雰囲気で着たい、など、自分なりの「方向性」が出てくると思う。

それが色気のようなもので、色気(センス)は、極端に言えば着ている人の数だけ選択肢がある。着こなした上でそれを追求することが、結果として「粋、意気」を生むわけだ。

もちろん、全ての人が「粋」を目指す必要はこれっぽっちもないので、着こなせるようになった(中学校で義務教育は終了)だけでも充分。まあ実際は、継続的に着ていれば知らず知らずのうちに「粋」らしいことをしていると思う。

もう一度念を押しておくが、キモノに着られている状態(解説)であったり、あるいはポンコツ着物屋の口車に乗って高品質のものを着ただけ、奇抜な着方をしただけ、では、自然(着こなし)と色気(自分のセンス)の両方を満たすことはできない。そんなものは「粋」でもなんでもないのだ。

いき←→やぼ、すい←→ぶすい

ところで、特に和服に関連した「粋」の場合、今では「いき」と読むのがほとんどだが、漢字としては「すい」とも読む。

はるか昔、江戸は精神的な(心)意気←→野暮(やぼ)で、上方(大阪)は美術的な粋(すい)←→無粋(ぶすい)のような感じだったらしい。冒頭に書いた意味の反対なので、「あか抜けしていなくてわざとらしい、しつこい、くどい」といった感じだろうか。
(参考文献「江戸Tokyoストリートファッション」遠藤雅弘 著)

和服に限らずお洒落をしたい人はいるし、私も反対するどころかどんどんやればいいと思う。しかしお洒落を「仕込んでいる」ことを、他人に聞かれて答えたのならまだしも、自分から率先して暴露してしまえばなんの意味もない。わざとらしい→野暮、無粋、ということだ。

例外として「わざと野暮ったく着る」のはアリだろうが、そこまで考えてできる人はなかなかいないと思うし、「わざと野暮ったく着てみました!」などと自分から申告するようでは、今書いたように「ただの野暮」にしかならないので、その点は注意をしてほしい。

「仕込み」をバラしたらただの茶番劇

「男の和服は見えないところでお洒落をするもの」という謳い文句を聞いたことがないだろうか?有名なのが羽織の裏地や長襦袢で、派手な生地や珍しい色柄をそれらに使うことによって、脱いだ時にその生地が見え、見物客からは拍手喝采雨あられ、という仕組みだ。

もちろんやるのは個人の自由だが、表面上は見えないところにお洒落を仕込むのだから、気づかない人はぜーんぜん気づかない。それを踏まえてあくまでも「自然に」でないと、ドッキリカメラ状態の茶番劇になってしまう。

羽織はまだ脱ぐ機会はあるだろうが、長襦袢は裾や袖口程度ならまだしも、全体像は長着(着モノの正式名称)を脱がないと絶対に見えない。銭湯や温泉にでも行くか、ワンナイトラブGOGO!(もともと長襦袢は遊郭発祥らしい(解説))ぐらいしか方法はないと思う。

にもかかわらず「ジャンジャジャーン!今日はこんな色柄の長襦袢(羽織)を着てきました!」などと仕込みをバラそうものなら……野暮(無粋)なオ○ニーお疲れさん!というわけだ。

「いき」+「すい」=無敵

はっきり言っておくが、究極まで「粋」にこだわり、他人からも第一声で「ほお〜粋ですね」と感嘆される人は滅多にいないし、もちろん私なぞ足元にも及ばない。そのかわり、着慣れていないのに派手な目立つ恰好をしているだけ、テンプレで「粋ですね!」と言われてしたり顔をしているだけ、のような「フェイク」は掃いて捨てるほどいる。

両者の違いは、フェイクイキは場に馴染んでいなくて「浮いている、目立つ」なのだが、「粋」は場に自然と溶け込みつつなぜか「存在感がある、際立つ」といった感じかな。言葉では説明しづらいが、ある程度和服を着てきた人が実際に目の当たりにすれば一発でわかるはず。

また、「いき」と「すい」どちらがいいか、今さら区別するつもりはないしどちらを選んでもいいが、現代の和服を取り巻く環境は、大阪(上方)だけではなく全国的に「すい」のほうが重要視されすぎている気がする。「そのキモノ、イキですねー」と「着ているもの」を指した、本来は「すい」である「粋」ばかりをあちこちで見聞きするのがその証拠だろう。

悪く言えば、「すい」はお金さえあればどうにかなるものの、「いき」は人間性や雰囲気など、その人の「自然な持ち味」のようなものだから、ひたすら経験を積むしかないのだ。

私個人の考えとして言うならば、チ○コがついている男の子なら、まずは「いき」に重きを置いてほしい。それに適時「すい」が加わっていけば……たぶん無敵になる日もそう遠くはないだろう。

Last 2010/12/06. Copyright (C) since 2007 バカガエル.